下町の車両基地

顔が地下鉄っぽくて、漫画とか歯とか声優とかが好きらしいです。

うどん

父は忙しい人だ。

大きな背中は常に前を向いていて、コーヒーメーカーの蒸気の音をリビングに響かせたのち、経済面をツラにした縦4つ折りの新聞を鞄に突っ込んで出かけていく。

家に帰ればワインの開閉音を破裂させ、シワのついたテレビ欄を開いている。そして靴下は臭い。

一見ごく普通の父親の姿なのかもしれないが、父が私の方に体を向けている記憶はない。

なぜこのようなことを書いたか、それは先日父と会う機会があったからである。

前回の記事で母について徒然に書かせていただいたが、今回は父との話を書いていきたいと思う。

 

母とは年末年始に実家に帰省した時に再会している。嫌という程おせち料理と大嫌いなキムチ鍋を食べさせられた。

しかし、その時に父とは再会していない。年末年始は祖母の様子を見に実家を離れていたため、会うのは秋以来である。

 

13日の金曜日、大学研究室棟の机の上、電話が鳴った。

八重洲に来い」と父が言った。

出かけたい余裕はなかった。

だけど仕方なかったんだ。

 

とある歌の歌詞のようになってしまったが、「書類にいろいろサインして欲しいから、明後日八重洲まで来い」とのことであった。

 

15日の日曜日、その日は下北沢で舞台稽古の手伝いを行い、夕方に父の指定した八重洲ブックセンターへ向かった。

移動する京王井の頭線の車内、普段より分厚いコートを着込んだ女子高生たちが今日あった出来事をあれよこれよと弾ませていた。

アセチレン、縦軸x〔m〕、平面ベクトルという文系クズ学生の私からしたらなんともインテリな単語が聞こえてる。

そうか、今日はセンター試験だったか。彼女たちの顔は直前の緊張がほぐれた安堵と、これからの結果に対する緊張が混ざり合っていた。

 

 人波をかき分け鉄道を乗り継ぎ、東京駅まで出てきた。目的地周辺の交差点から父親を探し出す。さながらジャングルで珍しい生き物を探す探検家のようであるが、コンクリートのジャングルの中にいるのは正しいし、絶え間なく流れる車のブレーキランプがナイル川のように見える。父は時間きっかりに声をかけてきた。

 

いつも通りだった。スーツを着込み、手には新聞と手帳、書類入れを持っている。

久しぶりの再会だが0度に近い極寒の空間に私たちは居る。父は「座るか」と地下街に入った。このまま喫茶店に入るのかと思ったのだが、父はオレンジに光る"上島珈琲店"の看板に目を向けず、うどん屋に吸い込まれていった。

 

父はテーブル席に座り、「好きに食べな」とおサイフケータイを手渡す。私は遠慮なくかけうどん+とり天・ちくわ天・いなり と贅沢をした。席に戻ると父は同じように注文をしに行き、戻ってくるときには「どや」と表情だけで語りかけてくる。

 

父の手には生ジョッキが握られていた。

 

「お仕事関係じゃないんかい」とツッコミを思わず入れてしまう、

「腹を割って話そう」と父はネクタイを緩めながら繰り返した。

 

そして気がついた。

もしかしたら父の正面を見るのは初めてなのかもしれない。

久しぶりに会った父の変化なんてそんなに気づかないほど頻繁に会ってない。目に見える白髪が少し増えたことしかわからない。シワが増えたとか、頬がたるんできたとか、そんなのは全くわからない。

だけど父の顔を見ることができた。ゆっくりと腰を下ろした姿をほんの少しだけ見れたきがする。これはアルコールが入っているからそう見えるのか、また自分が意識してるからそのように見えるのか、わからなかった。白髪交じりの髪とひげ、緩めたネクタイだけはしっかりと焼きついている。

 

書類にサインを終え、「これからどうするんだ」と切り出す。

もちろん就職先が決まっていることはメールで知っているはずだが、面と向かって伝えるというより、就職の話をするのは初めてだ。何時頃に下宿から引っ越すかであったり、今後はどこに住むのかであったり、父には聞きたいことが沢山あるのだろう。

 

現段階で決まっている事を淡々と支えるやりとりが10分ほど続いた。

僕達と同時に隣の席に座ったスーツの若者が天ぷらの2つ乗った皿をきれいにする前に、父は「じゃあ就職祝いでもしないとな」と立ち上がった。

「えっ、もう行くの?」と切り出したくなったが、そんな余裕もなく下膳をして、じゃあと身なりを整え店を出ようとした。僕が最後に言えたのは「3月には帰るから」だけであった。

急に来て、そしてすぐに去っていく。嵐のような姿は昔から変わっていない。

まだ会社でやり残したことがあるのか、顔をあわせるのが恥ずかしいのか。どちらにしても相手に考えさせる余裕を持たせない。

それでも私は、父の前に立つことができた。一瞬だけ緩んだ父の素顔を見ることができた。その場で起きた瞬間をコシのあるうどんと共に噛みしめた。

 

父という人は、やはり忙しいのである。