下町の車両基地

顔が地下鉄っぽくて、漫画とか歯とか声優とかが好きらしいです。

僕がほんの少し舞台に詳しい訳 その2

 

※これの続きです。

yosakoi-hnymt.hatenablog.com

 

 いろんな人に芸術に触れて欲しいと意気込んで大学に入学しました。

 橋渡しのような人物になりたいと考えていました。

 芸術経営をやりたいと言っても、芸術の"ゲ"の字も知らないし、正直『そういう人物になれればな』と曖昧な考えしか持っていませんでした。これが今後足を引っ張ることになります。足枷です。

 

 

 まず入学して様々なことに挑戦しました。演技に音楽に舞踊に伝統芸能に文献研究など、とにかく伝える人間になるならそれらの楽しさを自らが理解していないといけない』と思い込んで、言い聞かせて、チャンスがあれば挑戦しまくりました。実際芸術分野に取り組んでいるときの自分はものすごく生き生きしていたと思います。

 1年の秋、大学での演劇公演プロジェクトに参加しました。スタッフとして、希望していた宣伝広報部での仕事をすることになりました。

 正直辛かったです。雑務は押し付けられるわ、チーフから罵倒されるわ、男子は自分しかいないわ、毎日終電を逃しての作業が続きました。これが3ヶ月、とにかく心と体に負担がかかりまくりました。舞台が創られていくまでの過程であるとか、広報部の仕事内容とか、乱暴にだけど学べた気がします。ただ一番は終演後のお客様の満足した笑顔、あれを思い出すと自信をもって関わって良かったと言えると思います。

 ただそこで一番感じたのは自分の舞台に対する知識の無さなり、行動力の鈍さであったり、協調性の足りなさであったり、とにかく未熟な自分を目の当たりにしました。同時に、プロダクションに対して直接的に役に立てなかったもどかしさが残りました。

 

 

 2年次、僕は一度プロジェクトを離れ*1、他学部の授業を履修するようになりました。心の中では過酷な状況のプロダクションから逃げ出したかったのかもしれません。都合のいいように「学べるのなら他の学問も学びたい」と逃げていました。だけど学びたいことがたくさんあったのは本当です。正直芸術で食って生きる人間なんて才能がある人間か頭の回転の速い人間でないといけないので、僕には程遠い人物の一握りでしかないと当時は考えていました。なので保険という考え方もできますが、"自分だけの武器が欲しい"という理由が正しいです。舞台をやる上での武器、直近では大学の舞台制作プロダクション、将来的には自分のアイデンティティにいたかったのです。

 

 

 プロダクションを離れて何を勉強したのか、高校時代に興味のあった経営学や観光学・心理学・社会学と興味のあるものはとことん履修した気がします。特に観光、高校時代に鉄道研究部で部長を務めていた経験があり、友人の6割は鉄道つながりで通じ合った仲でした。なので同年代の友人は大学で鉄道に関係すること(観光・都市計画・建築など)を学んでいました。だから話を聞くなり「面白そう!」と食らいついて学んで「何かしら芸術に活かそう」と謎の野心を燃やしていたのでした。

 学部の実技校舎と他学部校舎を行き来する生活でした。それでも初めて触れる学問の世界はとても面白く、基礎学力のない自分*2にはちょっとアカデミックで賢ぶって見えたのでした*3

 そんな中マーケティングなり心理学なりマスメディアなりの授業を受講、成績は自慢できるほどではないですが、様々な教授と交友を持つことができ、時々学食でご一緒することも多くなりました。授業じゃ聴けない貴重なお話も伺えましたし、特に嬉しかったのは「今から転学したらいいよ」とか「うちのゼミ来る?」とお声をかけていただいたのは今でも鮮明に覚えています。

 

 そんでもって結論、他学部の履修は芸術を学ぶ上で役に立ったのか。

 

 ものすごく役に立ちました。

 

 はっきり実技系の授業は遅れをとるレベルで足手まといの自分でしたが、レポートを作成する、文献を調査するなどのことに関しては他学部の先生に相談したところ1からアカデミックスキルを学ばせてもらい、役に立てています。

 一番ぼんやりした言葉で表現するなら、「視野が広がった」というのがわかりやすい表現かもしれません。

 正直2年生の段階でははっきりとした結果は出ていないので一概ではないのですが、とにかくなんかよくわからないけど力が湧いてきました。完全にイキリオタク*4でした。

 それにならって秋学期も所属学部の授業と他学部の授業を併用して履修しました。正直今回は「逃げ」ではなく「役に立つから」と思って履修しました。逃げるは恥だが役に立つとはよく言ったものです。なんでもないです。

 所属学部でも専科に分かれていく頃合いでしたので正直両立はアレ*5かなと思っていました。それでも大二病は面倒くさい生き物ですので「俺はやればできる子だ」 と過信して乱暴にやりきりました。今思い返せば無謀でした。

 

 

 3年次の春、専攻に分かれていきます。私は演劇を専攻して、その中でアートマネジメントと演技の授業を積極的に履修していくようになりました。もちろん加えて他学部の授業も履修していましたが、経営と観光に絞って"聴講"という形をとりました。むやみに授業を履修して単位を落とすわけにはいかないので。

 他学部履修を減らした分、他の芸術分野に対しても少しずつ学ぶようになりました。上演芸術の他にもデッサンなりクロッキーなりにも手を出した気がします。

 一番の変化はアートマネジメントの勉強を直接できたことでしょうか。ここでやっとマネジメントの授業で習った内容が活かせたと思います。公共文化とか芸術教育とか、そんなことにも活かせた気がします(プロジェクトを運営する力を養った)。

 あと演劇公演プロジェクトのプロダクションに1年の秋ぶりに復帰することになりました。同級生からの熱い説得に負けました。作成企画の演劇コンペに参加して作品制作に没頭しました。ここで活かせたのは"リサーチ力"でした。

 戯曲を1から創るということで、何から何まで調べました。その中でアカデミックスキルの1つである文献研究がすごく役に立ちました。気になることはとことん調べてました。作品ノートも積み重ねていた記憶があります。

 3年秋に本格的にプロダクションに参加、1個上の卒業公演への参加でした。ここでようやく演劇作品を作りながら今まで培ってきた力をどのように作品に活かすかというものを実践できた気がします。日々先輩方のお手を煩わせて、夜通し作品について語り合ってました。戯曲を読み解く力とか舞台上に表現する力とかとにかく語り尽くせないことを学んで、育んできました。けど1番はそんな理屈より、演劇って楽しいって素直に思えるようになってました(身体に相当なガタがきていたのは秘密です)。

 

 

 4年次の春、僕たちの代の就活戦争は例年より遅れてやってきました。とにかく工面したのですがそこは気が向いたらで… 就活のためにプロダクションから一時的離脱して専念、並行して兼ねてから興味があった観光まちづくりのゼミを聴講させていただきました。これには3年の春からお世話になった経営学の先生からお声がけを頂いて実現したもので、「演劇の経験を活かして何かしら社会の役に立ちたい」と思っていたところ「観光にも興味があると言っていたし、芸術経営以外の勉強もしていないか」とおっしゃていました。

 けど待ってください、ここで当初の入学理由とちょっとずれてしまっています。これはつい最近まで気がつきませんでした。

 ①芸術を勉強するために大学に入学して、

 ②自分だけのアイデンティティが欲しい(大学生のうちに気になる学問を並行して勉強してしたい)と考え、

 ③いざ学部の専門授業を受けたら楽しくなって、

 ④将来は演劇の経験を活かして社会の役に立ちたい。

 

と、僕の考えはこのように推移しています。簡単に言うと、自分にしかできないことがしたかった、と。

 当時(現在)も他学部を積極的に履修して卒業要件ギリギリで在学しているのは僕だけですし、異色な経歴だとよく研究室で話されます。自分は自分にしかできないことをやってるんだって。

 

 やっぱりこの考えが足枷になりました。視野が広まった分、企業や職業に関して標準が思うように合いませんでした。何をやっても曖昧にまとまってめちゃくちゃにお祈りされました。もちろん、芸術系を扱う新卒の仕事は少なかったので並行して観光や公共交通など、他学部履修や聴講で学んできたことと演劇公演プロジェクトで学んだ実践的なチームワーク*6を組み合わせたら強いんだろうな、高校の時から興味があった業種だしと考えてました。

 

 

 4年の秋までもつれ込みました。就活から逃げるように演劇プロジェクトに戻りました。実際にチームで作品を作っていくうちに、やっぱりなにかしら作品を創るのが好き、それより終演後のお客様の笑顔を見ると自然と「やってよかったな」って実感してる自分がいたのに気付きました。

 秋は合計で7公演ぐらいに携わってました。正直今思い返すと就活と並行してやっていたものですからすごく意味不明なことをやってました。「最後だから」「やりたいから」全部自分のわがままでやってました。しかし自己責任なわけで、当然自分自身潰れることになりました。何もかもできなくなる、とにかく体と頭と感情がかけ離れて意味がわからないぐらいに行動できなくなりました。軽い うつ状態だったと踏んでいます。

 

 

 結局様々な人の助け(特に大学の就活課・研究室)の助けを借りてなんとか持ち直し、稽古と就活とスタッフ作業を両立できている自分がいてびっくりしましたし、何よりも作品を創っててものすごくワクワクしてる自分がいるし、やっぱり好きなんだなって思いました。

 ちなみに経営側のゼミもしっかり聴講してました。こっちは来れる時でいいと結構甘々だったんでなんとかなりました。だから、公演と就活とゼミといろいろやってました。あと並行して大学の手伝いとか、研究室の雑務とか、なんだかんだポンコツなりに頑張ってました。失敗は多かったですけど。

 あと4年間を通して他学部を履修したこと、本当に正解でした。

 演劇作品を作る上での文献研究や事実のかみ合わせなど、本当に役に立ちました。登場人物の心情から背景まで、一からしっかり作り込めたかと思ってます。

 例えば舞台となる土地について一つづつ調べることによって、その人物の生活や所作が一つ一つ変化していきます。

 あとこれは自分の場合なんですけど、方言を扱う舞台に多く参加しました。なので方言についてよく調べたなって記憶があります。青森から沖縄まで、よくやったなぁって。

 調べ上げることがすごい楽しかったです。知らないことを知るのは今でも楽しいですが。

 

 結局、今後も舞台に関わることになりました、内定をいただきました。一周回って運命なのかなって思いまいた。

 それからはずっと演劇まみれです。演者として舞台に立ったり、パンフレットやフライヤーの作成をやったり、チケット予約の管理をしたり、舞台装置を仕込んだり、客席のメンテナンスをしたり、大掛かりな放送施設を扱ったり、照明機材をいじったり、映像つくったり…

 舞台に関していろんなアプローチをして来ました。

 何から何までやった気がします。

 これまでに「笑顔をつくる仕事がしたい」と無我夢中で泥臭く頑張ってきたからこんな人間になりました。

 つまり、舞台にほんの少し詳しい理由は、「人を楽しませるエンタテイメントの力を信じている」からです。

 商業演劇に、小劇場に、ライブに、ヲタクイベントに、在学中に多くの現場を見てきました。これらは「楽しむ」というのはもちろんなのですが、人を楽しませることに対しての憧れ今後の自分のための勉強って意味合いが強いんです。

 だからイベントで図面を参考に演出の方法なりを見たり、もしも自分があの舞台の裏側にいたらとよく妄想して演出プランを考えたりと痛い人間になってしまったのです。

 簡単に言えば職業病です。

 だからナナシスのライブDVDを見ていろいろとイキり出したり、WUG*7のライブを見て振り付けのクセを見抜いたり、まんがタイムきららフェスタで某声優のバレエ経験を言い当てたりと気持ち悪さ全開でヲタクしているのです。

 

 ※他ヲタクから見た自分の気持ち悪い言動まとめ

 

 

 こう散文にまとめてみると、入学当初の好奇心と意欲っていうのはそう簡単に薄れていないことが自分でも驚きでした。

 今後も自分が創作する意欲を忘れず、大学での経験を思う存分に今後に生かしたいと思いました。

 

 おそまつさまでした。

 

*1:単位制で強制履修ではない。

*2:お察しの通り私はただのバカである、特に計画性と理解力がない。

*3:時は大学2年生、いわゆる大二病である。

*4:調子に乗っているオタク。関西弁のイキるの変化。

*5:暗黙の了解を侵している感覚

*6:実際にチームで働くという点ではものすごく力になったと自負しています。

*7:Wake Up, Girls!の略

僕がほんの少し舞台に詳しい訳 その1

 前回の記事を投稿して、「舞台ガチ勢かよ」というお言葉を頂きました。

 

※前回の記事

yosakoi-hnymt.hatenablog.com

 

 いきなり舞台断面図を取り出したり、バミリがどうたらこうたらとイキリヲタクしてるのも今見返すとアイタタタ…という感想を受けます。

 自分自身ペーペーな知識で書いているので本当に信用しないほうがいい内容ばかりでした。

 しかしなぜここまで長文をかけたのか、

 

 ずっとライブイベントに通っていて身にしみるように覚えた。

 

 って言えればかっこいいんですけどね。その気持ちはありますけど僕より思い入れの強い人は世の中にごまんといらっしゃいます。

 そうではなく、学んでいたからです。

 僕は大学で演劇について勉強していました。

 正直、舞台芸術に関わることはすべて触れてきたと思います。濃い大学生活でした。

 舞台図面も読めるようになりましたし、照明の吊り位置も遠くからわかるようになりましたし、関東近郊のコンペディションホールの概要なら覚えています。

 なぜ大学で演劇を学ぼうとしたのか。

  

 

 時は高校2年の2011年、東日本大震災が起きたことは誰もが知っていると思います。

 当時千葉に住んでいた私も震度5強-6弱の揺れに襲われ、遠くの沿岸では工場が火災、海沿いの街は地盤沈下でインフラがストップといった状況でした。

 それから数日は各テレビ局が震災の報道一色、テレビCMも全て自粛してACジャパンに切り替わっていきました。

 津波のこと、避難所のこと、インフラのこと、計画停電のこと、全て新しい情報が更新されるまで同じ報道の繰り返しでした。

 正直高校生のクソガキながら怖かったです。大きな災害といえば阪神淡路大震災が挙げられますが、94年-95年に生まれた世代にとって初めて目の当たりにする光景だったのです。

 それからしばらくして、高校の先輩と瓦礫処理の作業に参加するために宮城県気仙沼市福島県いわき市を訪れました。その中で感じたのは『インフラも大事だけど、心のケアも大事なんだろう』ということです。作業の間に休憩で避難所となっている中学校などでお世話になることもあり、地元の方とお話しする中で感じました。町の傷は綺麗になっても、心についた傷はそう簡単に癒せないんだなと。

 

 この考えを持つものは僕以外にもたくさんいらっしゃいました。2012年10月に『東日本大震災による被災地の復興支援のため、ライブエンタテインメントを通じた様々な活動を行う。』ということを目的とした社団法人が誕生しました。チームスマイル、豊洲・仙台・いわき・釜石でPITというライブハウスを経営し、復興支援のために活動している団体です。

 

 その団体いわく、『インフラの整備などが進み、震災復興は“第二段階”を迎える。決して十分とは言えないまでも、衣・食・住の整備が徐々に進みつつある中、「心の復興」を中心に、被災地の方々と支援者とが想いや感動を共有し、共感し、「共に立ち上がれる仕組み」を、それも継続的に作り出していくことが求められている。』

 

 実際にも震災直後は、コンサートや演劇・スポーツなどイベントの開催中止や延期が続々と決まっていました。しかしながら逆に、エンタテインメントには被災地の方々に勇気や元気を届ける力があるはずだと共感しました。

 この団体自体は私が高校3年の秋に形となったので、団体の設立は芸術を学ぼうという直接的な理由にはならないのですが、考え方は非常に近いです。

 その考えを高2の時から持つようになり、ちょうど進路を決め始める時期と重なったことから、「芸術分野」という言葉が頭に浮かぶようになったのでしょう。高校2年生ということもあり絶賛"高二病*1"でしたし、私は男子校で青春を犠牲にしましたから、周りのクラスメイトもユニバーシティドリームを掴もうと夢は大きく持っていたのも影響しています。大雑把な夢を荒削りに表現していました。「人を笑顔にしたい」って本気で思ってました。

 エンタテイメントが本気で「心のインフラ」としてこれからの世の中で必ずしも必要なものになると思いました。

 あともう一つ、本格的に舞台作品にはまった時期がありました。ラーメンズです。小林賢太郎氏の戯曲集を読んだのがきっかけでした。文字だけの情報が舞台上だとこんなに変化するんだ、こんな表現の仕方があるんだなと。なのでそこからいろんな作品を見た気がします。正直内容は忘れました。大半が拙い高校演劇とかだったので。ただエネルギーに圧倒されました。その場で役者と作品を共有しているからこそ生まれる感動のエネルギーの虜になりました。

 あとはアニメです。特に声優です。根っからのヲタク体質ってこともあってのめり込みました。声のみでの表現の仕方って様々だと思ったんです。「あっ、この人こんな声も出せるんだ」とか「なんか頭に残る台詞回しだな」とか、アイドル声優の創立期ぐらいの話です。スフィアとか、そんな時代です。

 

 そんなこんないろいろ含めて、「世の中の様々な人に芸術作品・エンタテイメントに触れて感動して欲しい。それらを通して心を豊かにして欲しい」と将来の目標のように口癖になっていって、将来の目標として大学を考えていったんだと覚えています。

 

 その中でエンタテイメントや芸術分野にだんだんと興味を持つようになりました。当初は比較文化としての芸術を学ぶとか、経営学部でマネジメントを淡々と学ぶと進路を考えていたのですが、高校の時の担任との面談で、『正直"芸術"を伝えるとなればアーティストに、それこそお前の好きな声優を目指すのが曇りのない将来だ。しかしなぜ経営なのか』と言われました。ダルビッシュの直球が僕の内角低めを抉ってきた感覚でした。言われれば確かにそうだと。だから他人の先生は『今まで何にも芸術をかじったことがないなら基礎から勉強していく必要がある、そして、オールマイティに芸術も経営も勉強できる大学を探す。』とおっしゃった。その答えがアートマネジメント・芸術経営という形となりました。

 決して頭も運動神経も良くなかった自分、できることは目標が決まればそれに向かってやれることに打ち込む、結果、晴れて芸術経営を勉強できる大学に入学することとなりました。

  これが僕が大学に入学した理由です。

 気が向いたら入学してからも書いていこうかと思います。

 

(追記)

→その2

yosakoi-hnymt.hatenablog.com

 

  

 

*1:高校2年生になるとかかる病気。賢い中二病と思ってくれればわかりやすいかもしれない。

Tokyo 7th シスターズに触れた日

 こんばんは、卒業制作の2つ目が終わり少しだけ落ちつきを取り戻しています。

しかし2月には3つ目の卒業制作が待っています。残り一つですので頑張っていきたいところです。

 

さて。Tokyo 7th シスターズ 2nd Live 16'→30'→34' -INTO THE 2ND GEAR-のライブBlu-ray友人に見せていただいた(最近のヲタクのの言葉を借りるなら"布教")。

はっきり言って世界観に圧倒されました。

そのことについて殴り書きします。

印象だけで書いてます。

正直自己満足なことしか書いてないんで気分を悪くされたらごめんなさい。

 

会場

 どうやらパシフィコ横浜の国立大ホールのようです。

 最大約5,000人収容可能な全国を代表するホールです。日々様々なイベントがも催されています。私もクラッシックのコンサートで何回かお邪魔させていただいたことがあります(音楽に詳しいわけではありません)。

 貝殻をイメージしているホールということもあり、白を基調とした内装に天井のギザギザが特長です。しかしこのギザギザにも「音を響かせる」技法がこらしており、上下左右から音を反響させて約57m離れた後ろの席まで届けているのです。

シドニー・オペラハウスも若干この形に近い気がします。

 とにかく、こんな素敵な箱*1で開催できるコンテンツ力が素晴らしいと思います。前回はZepp Tokyoでやったそうですね。確かあそこがスタンディングで2,700人だったはずですから約倍の数集まったということになります。

 

 

 

http://www.pacifico.co.jp/Portals/0/resources/promoter/facilities/convention/images/conv_hall07.gif

パシフィコ横浜施設紹介ページより参照)

 

 

 

f:id:yayousa16:20170202112957p:plain

(オペラハウス、どことなく形が似ている)

 

 

ライブ映像

 オープニング映像から作品の世界へ引き込む魅力的な演出でした。

 ライブ視聴後に特設サイトにて宣伝用ムービーを拝見したのですが、これまたオープニングにつながる"人を惹きつける演出"がされていたと感じます。

 キャスト紹介映像が良かったともいます。

 正直友人の方が詳しいと思います。正直一緒にBlu-rayを見ていた時に熱く語ってくれました。

 

記録映像

 ライブビューイング(以下LV)も同時に開催していたという話を伺いました。LVの人と同じ視点で楽しめるのかもしれませんね。

 それの他に私が気になったのは舞台裏にカメラをつけ、出演者の視点から客席を見れるアングルがあるのが印象的でお気に入りです。舞台上のFLやバミリが確認できるので

 

舞台装置

 二次元アイドルのライブにありがちなひな壇方式。舞台奥を高見にして出演者一人一人を見やすくする方法でした。しかしこの方法だと大きく動けるのが上下(かみしも)*2だけになるため、ライブ演出に多少の縛りが出てしまうという印象を受けました。

 また舞台上の階段はセンター別けで開き、中からバンド用の楽器一式が出てくるという演出があった。あれどうやって動かしてたんだろう… スモークで隠してたから人力なんかんぁ…

 あと最初に使われた鉄格子とクラッカー、あれインパクトありましたね。1stライブの時に2回もバズーカを使ってあげくの果てにはバルーンまで打ち込んだ時はものすごい処理が大変なんだろうと察してしまいましたが、あれより後の楽曲に影響しないようになってました。

 未だに舞台両袖*3付近に設置されたミラーボールの効果がよくわからないのは内緒です。

 あと出演者がバミリに縛られて自己紹介してたところがツボでした。守りたくなる気持ちはわかりますが、外から見てると少し不自然だったり、「位置間違えた!」ってのが顔に出てわかってしまうのも内緒です。

 

照明

 とにかくやばかったです。大掛かりに仕込まれていて、こりゃシュート作業*4大変すだなって。一番好きなのは舞台奥に吊るされたむき出しの機材と光るポールです。足元の明かりが多くて演者の顔が自然に見やすかったです。正直照明のことはよくわかりませんけど、ストロボを多用していたなって印象がありました。

 よくない点として演者がサスペンションライトを外しかけてる場面があったので、もっと光を感じろと言いたいところでした。

 とにかく光の演出は最高でした。特設サイトから赤や青を基調としたデザインを施していたので、それをフルに使って世界観を演出して、観客の心を掴んでいたと思います。

 

音響

 とにかくスピーカーが多方面があったような感じがします。ライブに参加していないので現場の状況はわかりませんので言及はできませんが、管弦楽を聴きにパシフィコを訪れた時は前からしか飛んでこなかった*5。ガンガンに響かせて身を震わせるぐらい響いていたのかもしれません。

衣装 

 夏らしくて良かったと思います。原作再現というよりは+αのアレンジがあったと思います。可愛らしかったです。アンダー感があったり、炭酸のような弾けるワンピースであったり、悪魔に天使にロックンロールな衣装、僕は大好きです。

構成

 率直に驚きました。自己紹介以外のMCなし、休憩なし、アンコール無しのライブ。キャラクターコンテンツ系ライブでこの手法を行うのは初めて、ってか今までに見たことがありませんでした。

 特に曲と曲の間は"暗転ハケ*6"を行ってシンプルに、演劇的な構成に近かったです。

 自己紹介MCの時間はあったが、1stライブでの各自己紹介に使った時間は50秒〜70秒、しかし今回は30秒程度にポンポンとテンポよくおこなっている印象を受けました。

 「ユニット曲複数+MC」という定型的な表現を避け、観客に展開を読ませないような工夫なのだろうか。ありがちな衣装替えもなく、グランドフィナーレでライブTシャツを着用するのみ。歌を聴かせるために余計なものを排除したというより、「ナナシスの構築された世界観をそのまま、余計なものを入れずに守りきった」という印象を受けました。

 

なぜこのような演出をなされたのか、今回のライブの総監督を務めた茂木伸太郎さんのインタビューから引用します。

 

今回はね、 “音楽ライブ”というものを真剣に考えてやりたいなと。あまりわかりやすく表に出るようなテーマではないんですけど、(中略)ある意味大きなトライです。どこまでやれるかはわかんないですけど、そのテーマをどうクリアしていくかっていうのが、こういったタイプのコンテンツのライブでの長期的であり絶対的な課題だと思うんで。(中略)ここで地力をつけないと続いていかないですからね。

 

 

彼は別のインタビューでも「『二次元アイドルってこういうもんでしょ』っていう世間のイメージを音楽面でまずは壊したいっていう思いもあります。」と発言しています。だからこそ従来の二次元アイドルで見られるようなMCや休憩などを取っ払って"音楽で勝負する"という気持ちが形になったんじゃないのかなと思いました。ありがちなステージ演出を排除し、音楽とパフォーマンスのみに引き絞った構成とすることで、「キャスト/キャラクターの魅力に頼り過ぎない」ステージをつくった。現在地点の自分たちを出し惜しみなく出し切る、意欲を注いだのではないでしょうか。

 

作品に対する世界観・イメージについては以下のページを参照しました。

 

 

その後

 とりあえず僕は原作ゲームをインストールしていなかったので、視聴後に早速インストール。楽曲・キャラクターを含め初心者ながら楽しませてもらっています。

 特にゲーム内BGMがお気に入りで、作り込まれているというか、ゲームのディテールを細かく彩っている、そんな気がします。

 今ではCDも借りたし、落書き帳に何人か練習に書いてしまうぐらいには虜になっています。

 

 

*1:イベント会場の意味

*2:上手下手のこと、お客から右手が上手、左手が下手。この場合は左右と考えてもらえると嬉しい。

*3:舞台端にある、袖幕に隠されて客席から見えない部分。よく演者がバイバイと消えていくところ。

*4:仕込んだ照明機材を役者を踏まえて本番用に調整する作業。灯体の向きや照射範囲を、本番で使う状態にするのが主。

*5:当たり前である。クラシックにスピーカーでガンガン鳴らすようなものはない。

*6:舞台上が暗くなる(暗転中)に演者や装置を舞台上からなくすこと

母のそばの蕎麦

 年始は実家で過ごした。

 正確には昨年の大晦日に、千葉にある実家に帰った。

 なぜ帰ったかというと、母親から以下の連絡(LINE)が飛んできたからである。

 

「海老天、何本がいい?」

 

 無論2本である。

 なぜ海老天なのか、それは大晦日で年越し蕎麦を食べるからであるだろう。

いやしかし、この一文に込められた意味を私なりに噛み砕くと

 

 「今日は大晦日だけど、実家には帰ってこないのですか?せっかく大学がお休みなのだから少しぐらいは帰ってきて大掃除の手伝いをしてほしいです。」

 

 となるのである。

 しかしながら年末は毎年、日本最大級の同人誌即売会に参加しているため、大掃除をするような時間に帰ることは不可能なため、

 

「2本」

 

と返信した。

 母親も同人誌即売会に参加していることは知っているので、帰りが遅くなるのは知っているはずだ。なので大掃除を担うことは無理無理のカタツムリなのである。

 

 

 大学3年の頃からゼミの配属になり、作品制作のために大学の周辺で下宿生活を始めた。実際、大学に入学してから終電帰りや大学に泊り込むことも多く、実家から大学まで2時間ほどかかるということもあり、生活の効率化のための行動であった。

 実家にいる頃から母からの連絡は多く、

 

「何時に帰ってくるの?」

「大学の帰りに牛乳を買ってきて」

「ちゃんと鍵をかけて外出しなさい」

 

と一般的な母親、カテゴライズするとオカンという感じの連絡ではある。大学1年の頃は大学生といえど数ヶ月前まで高校でハチャメチャやっていたクソガキであるため、しっかり連絡を返すということは少なく、曖昧な回答や俗称"既読スルー"をしていた。

 今思い返せばこのような態度をとれば、自分なら怒るというより、心配をしてしまう。しかし母は私が帰宅しても怒ることなく「遅かったわね、晩御飯は?」などとそこまでLINEのことには触れることはなかった。

 親元を離れて生活すると親からの連絡は4倍5倍にも膨れ上がり、

 

「野菜を食べなさい」「外食は控えて」などの食生活の管理。

「今日は雨が降るみたいだからちゃんと傘を持っていくこと」という配慮。

「かわいい」という文章とともに送られてくるカワウソの画像

地震があったけど大丈夫?」「大雨洪水警報が出ましたよ」と災害への心配。

 

要は心配性なのかもしれない。

 現在私は大学4年、もう2ヶ月もすれば卒業で、就活というクソイベントを経験した。その時も母親はくどく連絡をしてきたが、ウザいとかしつこいとかいう気持ちにはならず、心の支えというか、普通に心配してくれてるんだなと素直な対応を取れた。素直な対応といっても、「わかった」とか「ありがとう」とかその程度である。時にはポプテピピックスタンプにちりんノートスタンプで少しふざけて対応することもあった*1

 

 LINEでメッセージや電話をしてくるだけではなく、母はたまに手紙や荷物を送ってくれた。中身としてはアウトレットモールで見つけた服や靴や鞄、洗剤などの日用品、クール便で大学宛に手料理を送り込んできた時もあった*2。就活で苦しんでいた時には上野東照宮のお守り*3

 

 母の心配や応援に対してどのように返すというのか、就活で完全に気分が沈んでいた時期にふと『心配しかかけていて情けない』ということを考えた。そのことを友人に話したところ、『そんなに深く考えるつもりはないし、大学生のクソガキに親には迷惑しかかけれない、だから感謝と安否だけ伝えればいい』と言ってくれた。そこまで情けなく感じることもなく、社会の荒波に飲まれ親の老後をしっかり面倒みれればいいのだ。まずはしっかりと生きて、母を安心させることが一番の親孝行なのかもしれないのだ。

 

 2016年最後の日、私が実家に帰った時、テレビの中ではアイドルグループの嵐が歌っていた。そのシーンは年末の大イベント"紅白歌合戦"で大トリが歌うほどの遅い時間に帰ってきたことを表していた。

 母の第一声は、「おかえり」ではなく、「今嵐が歌ってる位から手洗いしてうがいして部屋着に着替えて待ってなさい」。母は嵐の大ファンである。22年間育てた息子でもジャニーズのイケメンたちにはかなわないのである。

 全出演歌手のハイライト映像に切り替わり、母は2人前のそばを台所から運んできた。

 「先に食べちゃおうと思ったんだけどね。」

 ごめん、打ち上げがさ。と続けようとしたが、母は僕の前にエビ天が2本乗った蕎麦を置き、「いいのよ」と遮られた。

 「おかえり、早く食べちゃいなさい。」と口にする母の顔は、食卓に並ぶ蕎麦の湯気に隠れてよく見えなかった。

 

 

 

 

 

 

*1:母は関西人で、高校卒業まで大阪と兵庫で育った、そのため息子の投げかけるネタにはしっかりとボケなりツッコミで返してくる。

*2:いかなごの釘煮と野菜ジュースと巻き寿司、研究室で美味しくいただいた。

*3:勝負事で有名な神社で、他抜き守りが有名。他の者を抜いて勝つという意味合いがあり、お守りには狸の絵がある。

初詣と縁結び

 皆様、あけましておめでとうございます。

 年末にブログを開設してからちゃんとした投稿は初めてなのかなとは思いますけど、今回も挨拶から始まってしまいました。

 

 年を越えて、新年になったという実感は元旦から一週間も過ぎれば薄れ、大学の授業も再開し、卒業制作(普通の大学生なら卒業論文、通称"論文"を書いて卒業するのであるが、私が学んでいる学問は芸術分野になってしまうので卒業制作、通称"卒制"を行って卒業する)のために多事多端な状態です。

 

 大学が始まる前に、初詣に行きました。人間、特に私はよく深いもので、彼女も恋人おらず非・リア充である私は恋愛成就にご利益のある東京大神宮に行こうとしたのですが、入場まで3時間待ちの行列、列形成が飯田橋の駅前までできていました。

 そのため場所を変えて神田明神へ向かいました。こちらも縁結びに強い神社であるのと、過去に何度か訪れたこともあったので、よく家族で参拝したのは記憶に残っております。

 年始とあって初詣客が押し寄せていましたが、ここは30分程度の待ち時間ですみました。

 しっかりと二拝二拍手一拝し、心の中でよく深い願いを唱え、お守りを授かり、おみくじで助言をいただくというのが自分のなかで参拝のゴールデンルートとなっており、お守りは願いが成就するもの、おみくじは吉とごく一般的な結果となりました。代わり映えのしない結果も、日々の平穏な生活につながると考えればものすごく良い結果なのかもしれません。

 

 東京大神宮と神田明神、両縁結びの神様を訪ねて気がついたことはどちらも若い女性が多かったです。東京大神宮は特にでしょうか。対する神田明神は男性の参拝客(特に堅実で真面目そうな身なり)の方もいらっしゃいましたが。初詣ということもあってちゃんと老若男女共にいらっしゃいます。ただ、一人で訪れる女性の一部の方にはかなりの圧力といいますか、熱意を感じる人も見受けられました。目が本気なんです。もしかしたら、東京大神宮の参拝時間が極端に長かったのは、皆さん良縁を強くつよく願っていたからなのかもしれません(ただ、履いているタイツが伝線して身だしなみが汚かったり割り込みをしたりと、自分とか周りとかが見えていない方もポツポツと見受けられ、そのような所が縁から遠ざかる原因じゃないのかな、と感じる場面もあったのは秘密です)。

 

 カッコのように、身だしなみの崩れは内面の崩れでなのかなと感じるきっかけにもなりました。身なりを整えるというより、自分も周りに嫌な思いをしないためにも、落ち着いて行動する、前を見通して動くというのは大事なことなのでしょう。卒業制作で阿鼻叫喚している今だからこそ、今一度、自分を見つめ直す時間を作ってもいいかもいいかもしれないですね。

 欲の羽を生やし舞い上がることなく、地に足をつけて一歩一歩確実に生きていこうと思います。酉年なので。

 それでは皆さん、初めてお会いするかとも多いと思いますが、今年もよろしくお願いします。

ごあいさつ

「自分の考えをまとめるなら、何かしら文章にまとめればいいんじゃない?」と言われました。

 

はじめまして、やようさ(@8_0_8_3)って言います。

僕は文章を書くのが下手というかとても稚拙なので、ブログってのを勧められました。

ベネッセの進研ゼミもそんなに続かなかったし、三日坊主という言葉がお似合いな自分にとってしっかりできるのかなぁと不安になりますが、しっかりやっていきたいなって思います。違う違う、誓います。

 

普段はtwitterの140字じゃ表せない考えや気持ちや感想やチラシ裏を少しづつ書いていこうと思います。

大体は趣味の話なんでしょうか、宜しくお願いします。